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江別市 地域情報
江別市(えべつし)は、北海道石狩振興局管内にある市。西に隣接する札幌市中心部まで鉄道で約20分の距離にあり、同市のベッドタウンとして一時は道内第9位まで人口が増加したが、2005年をピークに減少が続いている。

地理
市域は石狩平野のほぼ中央で、石狩川の両岸にまたがる。主な市街地は鉄道や国道の通る川の南側にある。南東の南幌町との境には石狩川の支流・千歳川が流れる。札幌市・北広島市との境にある野幌丘陵には2,000haにも及ぶ野幌森林公園があり、道立自然公園に指定されている。森林公園は現地では『原始林』とよばれていて、その一部は原始の時代から手つかずの状態で保存されている。最高地点である南端部の丘陵でも標高93mで、その他は低地が広がっている。

歴史
北海道の先史を知る上で江別は重要な地の1つである。続縄文時代には、弥生文化の影響を受けた北海道南西部中心に見られた「恵山文化」と北海道東部にあった文化が、江別を含む石狩低地帯で約1800年前の頃に融合したとされる。江別では後期北海道式薄手縄文土器(後北式土器)が多く出土し、日本先史の権威である山内清男はこれを江別式土器と名づけ、この土器が使われた文化を「江別文化(後北文化)」と呼んだ。なおこの江別式土器は東北地方でも多く出土する。

その後、7世紀から9世紀ごろに築かれた「江別古墳群」もこの地で発見されている。この古墳は現在発見されている古墳のうちで最も北に位置し、東北地方北部の様式に似ることから、本州と北海道との交流を知る上で重要な資料である。

江戸時代には、松前藩によって石狩十三場所が開かれ、このうち上ツイシカリ場所と下ツイシカリ場所が石狩川左岸、現在の世田豊平川合流地付近に位置していた。これら場所と呼ばれる商場は、幕末ころまで存続していた。

現在の江別市に和人が定住したのは、1867年に通行屋(旅行者のために宿泊、休憩の場を提供した)の立花由松が住んだのが最初とされる。1869年、北海道11カ国86郡が置かれ、現在の江別市に相当する地域は石狩国札幌郡に含まれた。1871年、陸前国遠田郡馬場谷地村(現宮城県遠田郡涌谷町)の農民21戸76名が対雁(ついしかり)に来たのが集団入植の始まりである。しかし開墾に難儀し、1873年(明治6年)開拓使開墾掛に換地を願い出て受理され、19戸70名が札幌郡雁来村へ再入植するに至った。跡地は榎本武揚の農場となった。1876年(明治9年)には、樺太・千島交換にともない、岩舩瀬兵衛(開拓使・江別初代村長)により樺太アイヌが対岸に移住させられた。

1878年(明治11年)8月に江別太(現在の王子地区周辺)に屯田兵村が置かれ、同年11月に江別村が誕生した。1881年(明治14年)にも養蚕を営む屯田兵が入植したが、これらの試みは成功しなかった。しかし1882年(明治15年)、官営幌内鉄道が開業し江別駅が設けられると、石狩川水運と鉄道輸送の結節点として市街地が形成された。その後あらためて江別兵村、野幌兵村が設けられ、1884年(明治17年)以降3年間にわたり屯田兵432戸が入植し、開拓事業にあたった。また屯田兵以外の人々による開拓も多かった。中でも大きな成果を挙げたのは新潟県人による北越殖民社で、1886年(明治19年)に江別太へ17戸、1890年(明治23年)には野幌南部へ204戸の入植を果たし、稲作を成功させた。

明治の中ごろになると工業が芽生え始めた。1891年(明治24年)に江別太で煉瓦工場が操業した。ほどなくして北海道炭礦鉄道により野幌煉瓦工場が作られ、また鉄道資材の生産も行われた。1897年(明治30年)に市街地の大半を失う火災にも見舞われたが復興をとげ、1908年(明治41年)には富士製紙北海道工場(現:王子エフテックス江別工場)が操業を開始。労働者も多く住むようになり、1916年(大正5年)には町制を施行した。

第二次世界大戦後には引揚者を積極的に受け入れ、また戦後復興にも力を注ぎ人口は伸びていった。1953年(昭和28年)5月23日に市街地の半分を焼く大火を出しながらも、翌年には市制を施行した。1963年(昭和38年)に東野幌に炭鉱離職者団地、翌年道営大麻団地が建設されると宅地化が進行、道内各地から転入者が急増し、さらに札幌市中心部へはJRで30分以内の距離に位置する地理的な利便性も助けて、ベッドタウンとしての性格が強まった。また、大学や研究機関を誘致し文教都市として町づくりをすすめた事から、この規模の市としては珍しく私立大学が計4校あり学生の居住も増えていった。そうした傾向から近年も主に野幌地区で中高層住宅が数多く建設されてきた。

このような当市の生い立ちから、全体的に過疎化が深刻な自治体が多い北海道にあって、札幌市などと共に人口が増加基調にある数少ない自治体だった。しかし2005年(平成17年)にはそれもピークを迎え、かつて市の中心だった江別(駅前)地区の衰退、大麻地区の団地の高齢化、少子化による学生減、札幌市中心部への都心回帰などの要因で現在は人口が減少し続けている。加えて、人口そのものが増えても札幌のベッドタウンとしての転入が主だったため雇用や都市機能などの求心力は伸びず、現在では昼夜間人口比率が北海道35市で下から3位、179市町村全てでも下から9位と極めて低い。
(ウィキペディアより一部抜粋)
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