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奥州市 地域情報
奥州市(おうしゅうし)は、東北地方の中部、岩手県の内陸南部に位置する、県内第三の人口・面積を擁する市。

概要
奥州市は、西側を奥羽山脈、東側を北上山地で挟まれる北上盆地の南部に位置する。北は花巻市・北上市・西和賀町・金ケ崎町、南は一関市・平泉町、東は遠野市・住田町、西は秋田県東成瀬村に接している。

奥州市最高峰の焼石岳を主峰とする西部地域の焼石連峰は、ブナの原生林が多く残されている。また、北上川東側には、北上山地につながる田園地帯が広がり、東端部には、種山高原、阿原山高原が連なっており、地域全域が緑のあふれる豊かな自然に恵まれている。

主な可住地は、東流する胆沢川によって拓かれた広さ2万ヘクタールで日本最大級の胆沢扇状地、その扇端の東側を南北に流れる北上川が形成した河岸段丘、および、その他の小河川沿い平地や高原地域となっている。可住地面積は443.69kmであり全国で7位(岩手県内でも1位)である。岩手県の可住地率は低いが、当市は北上盆地の恩恵を受けているといえる。

人口は約12万人で、県内では盛岡市、一関市についで第3位の人口規模となる。総面積は993.35平方キロメートルと広大で、東京都(2188.68平方キロメートル)の2分の1弱の広さがあり、県内では宮古市、一関市についで第3位の面積を有する。

土地の利用状況は、総面積のうち、田が、17.7%、畑が4.8%、宅地が3.5%、山林が44.1%で、農地の割合が高く、稲作を中心とした複合型農業により、県内屈指の農業地帯となっている。肥沃な大地からは前沢牛、江刺りんごなどの有名な農産物を生産している。また、交通の利便性の良さを背景に県内でも屈指の商業集積が進み、工業団地等が整備され、農・工・商のバランスがとれた産業基盤が特徴である。

胆江地方は古代東北の歴史舞台の中心地として知られ、角塚古墳、胆沢城跡、衣川遺跡群など数多くの史跡が残されている。市中心部の水沢区からは幕末から近現代にかけて多くの偉人を輩出しており、特に高野長英、後藤新平、斎藤実は水沢三偉人としてそれぞれ資料館や生家など史跡も多く残されている。奥州藤原氏に起源を持つ南部鉄器、岩谷堂箪笥、秀衡塗などの伝統産業や、日高火防祭などの祭典も多く、基幹産業の事業展開が図られている。

旧奥州街道および東北本線は、扇端沿いで河岸段丘上の水沢区の中心地域を南北に通っているが、段丘崖下の段丘面を通る国道4号沿いには新しい市街地が形成され、大規模なロードサイド店舗の進出が見られる。東北新幹線・水沢江刺駅は、その対岸(北上川東岸)に位置している。^ 胆沢ダム工事事務所
^ 他に大型扇状地として那須野が原扇状地(4万ha)、黒部川扇状地(1.2万ha)などがある。

歴史
およそ500万年前、奥州市周辺が仙台から続く入り江になっていた頃の時代は、マエサワクジラなどの海棲哺乳類が棲んでいた。

約3万5000年前には、斜軸尖頭器を出土した柳沢舘遺跡(水沢区)などが存在し、旧石器時代から人が住んでいたと考えられる。遺跡は中期旧石器時代で、片刃礫器、削器、斜軸尖頭形剥片などの石器があるが、後続する後期旧石器時代の遺跡は未発見である。

縄文時代の東北地方(特に北部)は、後世と比べ気候温暖であった。当時の東北地方はコナラ・クリなど の落葉広葉樹林に広く覆われ、海岸線は平野の中まで深く入り組んで、採集生活に適した環境を作り出した。なお縄文時代の文化は「東高西低」といわれ、西日本の人口密度が希薄だったのに対し、東北地方と関東地方は、日本列島の人口の過半が集中する、縄文文化の中心地であった。縄文時代の遺跡として大清水上遺跡などがある。

弥生時代の遺跡としては清水下遺跡などから石包丁が発見され、近くから水田の跡も見つかったことから当地方でも古くから稲作が行われていた。

この地方は古代、大和朝廷から日高見国と呼ばれ、日本書紀には「日高見の国は土地が広大で肥沃である」と記されている。平安時代初期に編纂された続日本紀によると「水陸万傾の地」と記されており、古くから拓けた土地であった。

東北地方が大和王権に服属せず独立を保っていた地方王国の時代から、仙台平野南部に次ぐ東北地方住民の中心地の一つであった。当時、東北地方の人々は、大和王権から蝦夷と呼ばれ恐れられていた。

5世紀後半〜6世紀初、日本列島北端に位置する前方後円墳、角塚古墳が造営された。当地には、古代から、豊かな国を支配する強大な権力を持った豪族がいたことを伺うことができる。

729年(天平1年)、東北地方初の寺院として、行基が黒石に東光山薬師寺(後の黒石寺)を建立する。

5世紀前後、仙台平野を中心とする東北地方南部が大和王権に服属すると、大和王権は胆沢盆地を中心とする東北地方中南部の蝦夷と対立した。

780年、俘囚長、伊治呰麻呂が東北地方の長官らを殺害して反乱を起こすと、蝦夷と朝廷の間にいわゆる「三十八年戦争」が始まった。このときも、胆沢・江刺は蝦夷側の根拠地であった。789年、蝦夷の軍事指導者・アテルイ率いる蝦夷軍は徹底抗戦し、巣伏の戦いで朝廷軍を撃退した。しかし802年(延暦21年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂に降伏し、「三十八年戦争」は桓武天皇の勝利で幕を閉じた。戦後、朝廷は国府多賀城から鎮守府を胆沢城へ移した。

平安時代後期、衣川を拠点とする豪族であった安倍氏が俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持つに至った。しかし前九年の役で、出羽の俘囚長・清原氏の援軍を得た源頼義・義家親子により滅ぼされた。衣川の地は、都人もあこがれた歌枕としても有名で、多くの歌人によって歌に詠まれた。

平安時代末期、前九年の役および後三年の役を経て、清原清衡(藤原清衡)が実父の姓に復して藤原氏を名乗り、根拠地を江刺郡豊田館から磐井郡平泉(現在の平泉町)に移して独自の地方政権を打ち立て、政治文化の中心都市の建設に着手した。

平泉の市街地は衣川の北側にも広がっており、衣川をはさんだ南の政治都市と北の産業・商業都市が融合して機能する複合都市を形成していた。衣川には藤原基成と源義経の居所である衣川館や、中尊寺の子院などが並び、一大産業・商業地があった。前沢区の白鳥舘遺跡は手工業生産が行なわれていた川湊として栄えた。また、清衡が平泉に居館を移した後も、江刺では益沢院で中尊寺に奉納された金銀字交書一切経が書写されるなど、清衡の本拠地として重要な役割をもち続けた。

安倍氏の血を引く奥州藤原氏は、約100年間に渡って東北全域を支配した。しかし四代目当主・藤原泰衡のとき、源義経を匿ったことを口実に源頼朝の侵略を受けて滅亡した。

貞和4年、無底良韶が黒石に正法寺を建立。奥羽二州(東北地方)における曹洞宗の本寺・日本第三の本山で、東北地方における曹洞宗の中心寺院として発展。かつては東日本各地に末寺が508ヶ寺や1200ヶ寺あったと伝えられている。

戦国時代末期になると、葛西氏は領土を胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡から、登米郡、本吉郡、江刺郡、気仙郡にまで拡大した。その一方で南部で隣接する大崎氏と衝突するようになった。このため大崎氏を挟み合う位置関係にある戦国大名、伊達氏と同盟し、伊達氏から当主を受け入れるなど、伊達氏と密接な関係を築いた。

伊達政宗の頃になると、葛西領は「伊達の馬打ち」と呼ばれる伊達氏の準領土となった。伊達氏は葛西氏の軍事指揮権を掌握したが、徴税権は葛西氏が握った。

伊達政宗が豊臣秀吉に屈服し、秀吉が奥州仕置によって葛西氏を滅亡させると、秀吉は葛西領を家臣、木村吉清に与えた。これに不満を抱いた伊達政宗は、旧葛西領および旧大崎領で「葛西大崎一揆」を起こさせた。しかし政宗の陰謀は秀吉に露見する。秀吉から一揆鎮圧の命令を受けた政宗は木村吉清を一揆勢から救出し、自ら一揆を鎮圧した。

戦後、秀吉は政宗から伊達郡などの先祖ゆかりの地や政宗が征服した会津地方を奪い取り、政宗に旧葛西領(現・岩手県南部)と旧大崎領(現・宮城県)を与えた。政宗は居城・岩出山城を築き、新しい領土の統治に当たった。こうして奥州市一帯は伊達領の一部となった。

豊臣秀吉が死ぬと伊達政宗は徳川家康の天下取りに協力し、1600年の関ヶ原の戦いを経て1601年、政宗は居城・仙台城と城下町を築いた。ここに仙台藩が誕生し、奥州市一帯は仙台領の一部となった。

伊達政宗は平泉を含む岩手県南部(北上市まで)を支配した。当初、水沢には代官が置かれていたものの、後に伊達政宗の従兄弟にあたる留守宗利が金ケ崎城から入ると、以後は留守宗利を祖とする「水沢伊達氏」の支配が幕末まで230余年間続いた。なお、留守宗利は父、留守政景(政宗の叔父)の代から「伊達氏」を名乗っている。水沢は奥州街道が南北を貫き、手倉街道と盛街道が交差する交通の要所であったため宿場町として栄え、商人の町として町人文化も栄えた。この頃から近世城下町・水沢の原型が出来上がっていった。

また、江刺郡岩谷堂も仙台藩北辺の要害として、伊達家の重臣が治めた城下町として栄えた。岩屋堂城は幾たびも領主が変わったが、明治まで最も長く治めた岩城氏の時代に城下町が整備され、また問屋町が開かれた。岩谷堂宿は 北上川の舟運や陸路交通の要衝として栄え、江刺郡の中心地となるが、明治に入り日本鉄道(現:東北本線)の敷設に反対し、同線が北上川西岸側である水沢ルートを通ると、次第に流通の機能を失い急激に衰退していった。

慶長17年、キリシタンである後藤寿庵は、政宗の家臣で見分(現在の水沢区福原)に千二百石を領した。彼は自分の家臣や領民をキリシタンに帰依させ、居館の傍に天主堂やクルス場(墓地)をおき、この地を聖書の福音にちなんで福原に改めた。ここに全国から信者が移り住み、ガルバリヨ神父など外国人宣教師が訪れ、福原は東北地方のキリシタン布教の拠点となった。また、慶長17年から元和9年には、寿庵が西洋の知識を大いに活用し、私財を投じて胆沢川の水を引く用水堰の開削に尽力し、イエズス会・宣教師アンジェリスをして「アラビアの砂漠の如し」と言わしめた胆沢平野の開墾に大きな功績を残し、現代まで胆沢平野を潤している寿安堰が完成した。

1868年、明治維新の際の戊辰戦争では、仙台藩は奥羽越列藩同盟(北部政府)をつくって明治新政府と戦った。仙台藩の一門である水沢藩も白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ、慶応4年6月12日に星隊長ら17人の死者を出した。新朝廷を創設する動きまであったが、敗戦により「東武朝廷」の誕生は成らなかった。

戊辰戦争敗戦にともない、水沢伊達氏領は仙台藩から没収されたため失領。翌明治2年(1869年)、邦寧は旧姓に復して留守氏を名乗る。同年、居城・水沢城が胆沢県庁として使用されることになり新政府に接収され、さらに水沢伊達氏家中は陪臣であるからとして帰農を命じられ、仙台藩の士族籍を得られなかった。このため、士分を保つために家中一同そろって北海道開拓に参加すべきとの意見が出されたが、邦寧は病身のため極寒の気候に耐えられないであろうとの判断から仙台に残留し、吉田元俶・坂本平九郎が家中200名を率いて石狩国札幌郡に移住した。この時、水沢伊達氏家中によって拓かれたのが平岸村(現・札幌市豊平区平岸)である。

1872年、廃藩置県により、伊沢県(県庁は前沢)、胆沢県(県庁は水沢)、江刺県設置(県庁は岩谷堂。後に現在の遠野市に移された。江刺県は現在の岩手県北地域にまで広がる広大な領域であった)。その後、県合併により一関県(県庁は現在の一関市)、水沢県(水沢県の県庁は当初は水沢に置かれる予定であったが、現在の宮城県登米市に置かれた)、磐井県(県庁は現在の一関市)、岩手県(県庁は現在の盛岡市)となる。

なお、奥州市が属していた旧仙台藩領が「仙台県」とならずに「宮城県」となったのは、仙台藩の雄藩のイメージを明治新政府が抹殺したためだといわれる。但しこれは宮武外骨が昭和になって提唱した説であり、実際は官軍側であっても県名に郡名を採用した結果県名と都市名が一致しない例が沢山あることからも、俗説の域を出ない。

1878年、胆沢・江刺郡役所が塩竈村(現在の水沢)に置かれる。

薩長藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は岩手県でも起こり、水沢には下飯坂権三朗を中心として立成社が結成された。

岩手県成立後も、旧仙台領である胆沢、江刺、西磐井、東磐井、気仙の県南五郡は地形、産業、歴史上、南部領とは異なるとして、住民により県南五郡を宮城県へ編入する分県運動が明治23年に自由民権運動とともに起きた。分県運動は署名運動がなされ、宮城・岩手両県の政治家により、衆議院、貴族院を通過したが、県南五郡を岩手県から離せば、県の財政基盤が崩れる点から、岩手県側から強い反対にあい、実行されなかった。

明治32年には水沢に緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)が開設され、緯度観測所初代所長の木村栄博士が世界的偉業であるZ項を発見した功績により国際極運動観測事業の中央局となり、水沢の名が世界に知られた。

戦後も商都水沢は県都盛岡と並ぶ県南の中核都市として栄えてきたが、1990年代のバブル経済崩壊後の平成不況や、2000年に施行された新大店法による郊外の大型店進出などの影響により中心市街地は衰退している。
(ウィキペディアより一部抜粋)
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