検索タグ
おすすめ
流し2ちゃんねる
ブラウザで2ちゃんねるをリアルタイム流し見。インストールや登録は不要。
塩竈市 掲示板
地域別掲示板
テーマ別掲示板
他のテーマの掲示板をご希望の場合は、
投稿のしかた
投稿は超簡単。動画や画像をメールに添付してスマホや携帯から送るだけ。
フォームからも送れますのでお好きな方を選んでお気軽にお試し下さい。
メールで送信する方法
投稿したい掲示板別に用意してあるメールアドレスに投稿したい内容をメールで送信してください。

メールの内容は以下の様に掲示板に掲載されます。

・件名
→ タイトル(省略可)

・本文
→ メッセージ内容(省略可)

・添付ファイル
→ 画像・動画ファイル(省略可)

本文中に以下の形式で名前を記述すると名前欄に掲載できます。

name:[(お名前)]

【メール本文記述例】

name:[しんちゃん]

今日はいい天気だね。

送信先のアドレスは各掲示板に記載してあります。

塩竈市 掲示板の
送信先アドレスは以下の通りです。

miyagi-shiogama
@wma.jp
こちらをクリックして送信してください。
フォームから送信する方法
投稿したい掲示板別に用意してあるフォームから送信してください。

フォームを開くボタンは各掲示板別に用意してあります。

一部、フォームの使用を許可していない掲示板もあります。その場合はメール送信で投稿して下さい。

塩竈市 掲示板の
フォームは以下のボタンを押すと開きます。

注意事項
以下のような投稿・コメントはすべて禁止いたします。
・当該サイトの内容にそぐわないもの。他人に対する嫌がらせ、悪口、脅し、名誉毀損や侮辱する内容。
・営業妨害、著作権法に違反するもの。商業目的、広告目的、個人のプライバシーに関わる情報。
・送信メールアドレスの偽装やシステムに対する不正なアクセスなどの行為。
・わいせつ・暴力・惨劇など、公序良俗に反する内容や他人を不快にさせる内容。

上記に違反する投稿、こちらが不適当と判断した投稿は断り無く削除・修正する場合があります。
相互リンク
相互リンクして頂けるサイト様を募集しています。
都道府県別・市区別・テーマ別に掲載いたしますので、地域性や指向性の強いアクセスをお送りできます。
先着順でお受け致しますので、サイト名・アドレス・ご希望の掲載地域をメールでお気軽にご連絡下さい。
塩竈市 地域情報
概要
宮城県のほぼ中央、仙台市と松島の中間に位置し、仙塩地区の中心の1つとなっている。松島湾と松島丘陵に囲まれており、平地のほとんどは埋立地である。市街地は、埋立地が6割、丘陵地が4割という比率である。この狭い可住地に密集して人が住んでいるため、ロードサイド店出店に適した土地がない。そのため、減反政策で土地に余裕があった利府町や多賀城市にロードサイド店が多く進出するようになり、仙塩地区の商業の中心としての地位が奪われ、塩竈市中心部のみならず郊外部の商業も低迷している。

歴史
陸奥国の国府が現在の仙台市太白区(郡山遺跡)から多賀城市に遷った頃、陸奥国府の外港として、今の塩竈市内には国府津(こうづ)がおかれた(→仙台湾の港の歴史)。今の香津地区にあたると言われる。香津は内陸にあるが、古代には入り江が二つ、深く入り込み、南側の入り江に国府津があった。北側の入り江の北側に、海に面して“陸奥国の守護神”鹽竈神社(しおがまじんじゃ)があった。港町と鹽竈神社は海を隔てて少々距離があったことになる。

陸奥国府が多賀国府(たがのこう)として七北田川沿いの岩切に移転すると、河口港の湊浜が国府最寄りとなり、塩竈の外港としての意義は薄れたが、以後は鹽竈神社と港湾を中心にして、中世にも町として続いた。町の名は神社からとられて塩竈となった。

戦国時代には留守氏の勢力圏にあり、留守氏が鹽竈神社の神人組織を自らの家臣団にした。伊達氏から養子に入った留守政景の代になって、実質的に伊達氏の領国の中に取り込まれた。

戦国時代の末期、伊達政宗は東北地方(奥羽)の南半分を征服し“奥羽の覇者”となった。1590年に伊達政宗が豊臣秀吉に服属したとき、留守氏も政宗を通じて間接的に服したはずだったが、秀吉は留守政景を自分に帰参しない独立大名とみなして取り潰した。政宗が政景に磐井郡黄海に2万石を割いて家臣にしたとき、留守氏の家臣はこれに従って移り住んだ。

1600年の関ヶ原の戦いを経て、1601年に伊達政宗が仙台城を居城として、後まで続く仙台藩領の形が定まった。これ以降1871年の廃藩置県まで、現在の塩竈市域を含む宮城郡は仙台藩の一部となった。

江戸時代に塩竈は、仙台市の外港として発展した。しかし、塩竈から仙台まで舟入堀と舟曳堀が引かれて物資が塩竈港を素通りするようになると、衰微しかけた。鹽竈神社を尊崇した伊達綱村は事態を憂えて、1685年に塩竈から課役を免除し、米以外の産物に塩竈への着岸を義務付けた。これによって町は活気を取り戻した。

明治時代のはじめに塩竈は人口約3500人を数えた。1887年(明治20年)に、今の東北本線の前身にあたる日本鉄道は、埠頭と直結する塩竈駅(現在の塩釜駅とは別)まで線路を敷いた。このことで、宮城県、あるいは東北地方における陸海の物流の結節点となり、流通業が大きく発展した。そして、のちにカメイややまやなどの宮城県を代表する企業が生まれた。カメイ会長は、ミヤギテレビのオーナーでもある。仙台港の開港以降、陸海の結節点の地位はそちらに移った。

1962年(昭和37年)に制定された新産業都市建設促進法に基いて、1964年(昭和39年)3月3日に本市を含む仙台湾地区が新産業都市に指定された。すると、同法23条に基いて本市や仙台市を含む8市町村で「仙塩合併」議論がなされた。しかし、議論は不調に終わり、現在も本市は独立を保ち続けている(一方、仙台市は後に泉市等を編入合併して政令指定都市に移行した)。
(ウィキペディアより一部抜粋)
トップページ
動画掲示板
トップページに戻る